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20231026読了:勅使川原真衣,2022,『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)

 体調が終わっているがとりあえず積読を一冊消化した。以下は読書メモ。

 我々がふだん◯◯力、××力と囃し立てている「能力」は実際のところなんなのか?考えたことはあるだろうか。

 例えば、今働いている職場では「優秀」とみなされ、以前働いていた職場では「使えないやつ」扱いされたと考えよう。もしそうだとするならば、それは当人の「能力」の問題なのだろうか?そうではなく、環境調整や組織の問題ではないか?このように著者は問いかける。

(ダイ:注・本書は母親と子どものダイアローグで構成されており、ダイは子どものひとり)「能力」って当たり前のように呼ばれるものがあって、なんとなくそれを受け入れているけど、実のところ、それが一体なんのことで、どう評価されているのか、という肝心な中身はわからぬまま。でも、能力獲得に追い立てられるプレッシャーは半端ない……ねぇ、僕ら、幻を見ているんじゃない?(p.35)

 導入・前提として、「「能力」は環境次第でいくらでも移ろうもの」(p.36)という議論が第1話で確認される。

 (基本的な構成としては、会社で悩めるダイ、そしてダイの妹のマルが、夭折した母親と「能力」をめぐって対話するというもの。その意味で読みやすい構成ではある。)

 続けて第2話では、教育社会学の知見をもとに、「能力の社会的構成説」や「能力主義メリトクラシー」の議論が紹介される。

 日本においては、過去の「実績」「功績」(言うなれば「過去の杵柄」)に関して、「能力」そのものではないにもかかわらず、「「能力」という「抽象的な『何か』をなしうる『力』へと転化し」(本田由紀、前掲書、83頁)、普及していったんだ」(p.48)という事情が説明される。(ここでの本田由紀、前掲書は『教育は何を評価してきたのか』)

 そのうえで、「能力」をめぐる「生まれ」の影響や、昨今のサンデルの「実力も運のうち」の議論も紹介される。

 日本における「能力」の変遷は、1970年頃まではそもそも「学力」とみなされてきたが、1980年代以降、「人間力」「生きる力」「コミュ力」といったかたちで、「能力主義の肥大化」が進行し、「ハイパー・メリトクラシー」が台頭した(pp.52-3)。

 第3話では、著者の修論をもとに、慶應SFCのカリキュラム改変を事例に、日本企業が求める「能力」(とそれに付き合わされる高等教育)が検討される。「協調性」(1986年)→「個性・創造性」(1995年)→「協調性」(1998年)と、企業が求める「能力」が変遷してきた。これに対して大学(特にここではSFC)が応じざるを得ない理不尽な状況が存在する(p.76)。

(ダイ)なるほど。人と人が集まって仕事はまわっているのに、個人単位の話に視野を狭める、しかも幻のような「能力」という概念に拘泥していて大丈夫?ってことか。(p.77)

 このような「能力」にこだわり、振り回されるのはなぜか。「学校教育段階での能力評価は批判されずに素通りされ、恨みを持つ個人も「『本当の私』を知らないだけ」と能力主義を内面化してしまうケースも少なくなさそうだ」(p.110)ということが要因として考えられる(第4話)。

 第5話以降では、人材開発業を事例に、能力開発商品の水平・垂直展開がいかにして起こったのか、著者の仕事内容や来歴も踏まえながら、まとめられている。まとめる力がないが、要所要所をかいつまんで見ていく。

 まず、コンピテンシーについて。コンピテンシーとは「仕事ができる人とのそっくりさん指数」(p.150)として扱うこともできる、言うなれば「能力」の測定に必要な指標である。

 この由来がおもしろい。コンピテンシーは、アメリカの心理学者・マクレランドとその弟子筋が推し進めた研究に由来する(p.154)。「仕事ができる」とは、「知能」「適性」でなく「コンピテンシー」だとぶち上げたのである。

誰が「活躍」しているのかを客観的指標で示し、ほかの人にもそのものさしを当てて、コンピテンシーの点数を知ることからはじめる。(略)まさにコンピテンシーは、人材の採用・評価・育成(開発)といったさまざまな人事の局面に向けて商品化がなされ、人材開発業界にとっては一大事業に成長した。(p.155)

 このようなコンピテンシーには「リーダーシップ」も含まれる。こうして巷には能力開発商品があふれかえることとなったというわけである。

 しかし、第7話で述べられるとおり、コンピテンシーにまつわる行動は真似しやすく、リーダーシップやパフォーマンスの予測手法は、伝統的な心理学の手法を活かしたもの、より統計的に精緻な解析を行うものに変化していった。

 それだけでなく、そもそもコンピテンシーに関する行動は、「真似すら難しい」「いざという時に発揮できない」こともある。このことは「性格」の違いに由来するのではないか(pp.174-5)。

 「性格」の違いが「行動」の違いを規定するという洞察をもとに、能力開発商品も、それぞれの「性格」に応じたオーダーメイド商品として無数に展開していくことになる。

 このような「能力を追い求め続けるしんどさ」(p.182)は、いつまで、どこまで続くのだろうか。

 職場では、「しんどさ」は個人の「メンタルヘルス」の問題に落とし込まれてしまう(第8話)。本来であれば、職場組織・環境の人間関係等の調整が必要になるはずなのに、個人の内面にばかり照準が当たるアプローチばかり取られてしまうのである。

 であればこそ、第5話に戻るわけだが、著者の基本的な立場は、「能力は固定的なもの」ではなく「関係性次第」と考えるものであるし、その立場に基づいて「人材開発」ではなく「組織開発」と自身の仕事を位置づけてきた(pp.124-5)。

 「能力」は序列をつけるものでも、万能化するものでもない。「能力」ではなく、組織がうまくまわるための「機能」という観点から考える必要がある(「多用な「機能」を持ち寄って、チームとして走っていく姿が健全な組織か」)(pp.127-8)。

 そして、個人のメンタルヘルスへの帰責について。第9話では、「生きづらさや不安の正体がわかったところで悩みが本当に解決するのか?」という、より身も蓋もなく、根源的な問いをめぐってのダイアローグが展開される。ここに至って、組織や企業の問題ではなく、どう生きるかの問題が頭を出してくる。我々はどう生きるか。ネガティブ・ケイパビリティ」(答えの出ない事態に耐える力)の議論の示唆を受けつつ、葛藤を抱えて生きる「生」を肯定する道が示されようとしている。

以下、いくつか。

1)「ネガティブ・ケイパビリティ」もまた適性検査に組み込まれてしまうのではないかというマルの指摘は鋭い。もし能力開発産業が適正検査をさらに発達させてしまうのであれば、やはり考える必要があると思うのは、そのように適正検査を発達させる(産学含めた)構造や仕組みを同じ時代の状況の中でモニタリングし続けることなのではないか。

そして、そのような適性検査を必要とする側が必要とし続け、導入し続けるのはなぜか。この点は本書でもその「カラクリ」が示されてはいたが、率直に言えばそのような「検査」を必要としなくなる状況、つながりを断ち切る状況が求められるのではないか。

2)続けて、第9話のある種の「どう生きるか」という問いかけとそれへの示唆は、第5話で展開された「組織開発」の議論とどう接続するのだろうか(斜め読みは承知のうえで)。重要なのは「能力」ではなく「機能」であると考えた際、それはおそらく「組織がいかにまわるか」の目線であり、立場になる。ここでぼやけてしまう「個人」「主体」の議論が、第9話ですくい上げられているとしても。

3)ダイが最終的に、会社で「僕を悪く言う人」の「語りを聞き出す」という方向にまで行き着いてしまうのは、彼の成長や軽くなった心を示しているのかもしれないが、個人的にはその方向で良いのだろうか、という気にもなった。2)ともかかわるが、言うなれば、環境調整の論点とネガティブ・ケイパビリティの論点をどううまく噛み合わせるのか、という点に自分の関心があるのかもしれない。