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20231209読了:栗原康,2015,『はたらかないで、たらふく食べたい――「生の負債」からの解放宣言』(タバブックス)

 1ヶ月くらい前に栗原康『はたらかないで、たらふく食べたい――「生の負債」からの解放宣言』(タバブックス)を読んだ。現在は筑摩書房から増補版文庫が出ている。

 いかんせんしばらく前に読んだので、内容もおぼろげなのだが、これをひとつの(裏)日本思想史の本として読むことを考えた。実際、徹頭徹尾そういう本なのだと勝手に思っている。3.11を契機に社会の底が抜けた感覚。社会のおかしさ、変わらなさ、その乗り越え方を、断想的かもしれないが、日本思想史を辿りつつ描いている(といっても自分は日本思想史に詳しいわけではない)。

 どうにもこうにも、自分自身が「市民社会」「福祉国家」に囚われた窓際勤労青年のメンタリティで生きており、自分ごとを交えた「社会エッセイ」としてのエッセンスをつかみあぐねているから、そういう読みの方向を考えるのだと思う。どちらかといえば、自分は「豚小屋に火を放て」の「かの女」として生活しているようなもの(自分と「かの女」の落差については、ここでは置いておく)。

 他方で、「かの女」が言い放つひとことひとことは、本当につらい。なぜこんなに後ろめたさを感じながら生きていかなきゃならないのか。以下は本書のハイライトのひとつだと思う。

「もう我慢できない。おまえは家庭をもつ、子どもをもつということがどういうことなのかわかっているのか。社会人として、大人として、ちゃんとするということでしょう。正社員になって、毎日つらいとおもいながら、それをたえつづけるのが大人なんだ。やりたいことなんてやってはいけない。仕事なんていくらでもあるのに、やりたいことしかやろうとしないのは、わがままな子どもが駄々をこねているようなものだ。」わたしも売りことばに買いことばで、やりたいことをやらないなら、なにがたのしくて生きているんだときくと、かの女は即答だ。「ショッピングにきまっているでしょう。おまえは研究がたのしいとか、散歩がてらデモにいってくるとか、カネをつかわなくてもたのしいことはあるとかいっているけど、貧乏くさくて気持ちわるいんだよ。そんなことをいっているからはたらかないんだ。大人はみんなつらいおもいをしてカネを稼いで、それをつかうことに誇りをもっているんだ。貧乏はいやだ、貧乏はいやだ。」(pp.38-9)

 勤労倫理・イエ規範・それらの穴埋めとしての刹那的な消費のあり方。これが三位一体で襲いかかってきて泣きそうになる。自分は今もたいがい貧乏だが、「貧乏はいやだ」「お金の無い大人(親)の姿はなんと情けないのか」と子ども心に思い続けていたこともついでに思い出す(自分の家族は失業などの憂き目にあってきた)。

 著者はここで伊藤野枝恋愛論にフォーカスを当てる。詳細は省くが、「結婚」に制約され収斂していく恋愛とは逸れる、「友情に裏づけられた恋」の可能性を浮かび上がらせる(pp.48-9)。言ってしまえば、「自分や他人の生命を尊重すること」(p.49)が何よりも大事なのである。

 だからこそ、著者は「国家」や「社会」を超える可能性を秘めていた、徳川綱吉(生類憐れみの令)に着目したりもしている(p.27)。とはいえ、徳川綱吉自身は結局江戸の人だし、後でサツマイモの話で出てくる徳川吉宗も江戸の人である。江戸時代において、徳川家を除いて、江戸時代を終わらせるような爆発的な思想はなかったのか、その点は気になった。

 例えば、参照されているスコット『ゾミア』のなかでは、国家から逃れる「逃散農民」が取り上げられている(pp.74-5)。これを参照点としつつ、鎌倉時代一遍上人が登場したりもする。では、やはり江戸時代真っ只中において江戸を超える可能性は何か?

 たしかに、江戸末期の蘭学者高野長英を論ずるくだりは、その可能性を感じさせる。ただ、高野がなりふり構わず勉強をしたいと遍歴を続けたそれは、言ってしまえば幕府から逃げつつ、知識や技術を磨いていくということだと思う。『ゾミア』的なイモの話とは少しずれる(もちろん、『ゾミア』はイモだけの話ではなく、いろんな逃走のあり方があるとは思うが)。

 とりとめもないことを書いてきたが、最後に。「だまってトイレをつまらせろ――船本洲治のサボタージュ論」もおもしろかった。「市民社会」の「正規労働者」とは異なる、サボタージュのあり方が存在する。

日雇労働者は、経営者と交渉するつもりなんてないし、そもそも、そんな交渉は成立しない。おなじ会社員ではないし、おなじ市民社会の人間とはおもわれていないからだ。それなのに、経営者にチリ紙を要求するなんて時間のムダだろう。そんなヒマありゃしない。だったらということで、クソをしたら、新聞紙でも雑誌でも、かたかろうがなんだろうが、あるものでケツをふいて、バンバンながしてしまうしかない。ひとは腹がいたくなったらクソをするのであり、ケツをふくのである。トイレ、こわれる。自然にだ。トイレがなければ、はたらけない。じゃあサボろう。あとは修理費をはらうのか、チリ紙をおくのか、経営者が自分でえらべばいいことだ。だまってトイレをつまらせろ。それがサボタージュの哲学だ。(pp.208-9)

 船本の思想を「社会の総寄せ場化」を背景として掘り起こしているくだりである。とはいえ、現代の非正規雇用の改善をめぐる状況はどちらかといえば、「市民社会」的な労使交渉のあり方に振れている気もする。どうだろうか。

(2023/12/9, 19:57追記)船本の壮絶な生き様を見るに、その生き様の前で「市民社会が~」とは口が裂けても言えない、そのような迫力がある。