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20231224「石川直樹:ASCENT OF 14 ー14座へ」展(於:日比谷図書文化館)――山と文体の崇高さ

 先日、出張で東京に行った。途中立ち寄った日比谷公園内にある日比谷図書文化館で、「石川直樹:ASCENT OF 14 ー14座へ」展を見た。ふらっと散歩するだけでいろいろと展示会に遭遇できる、東京の文化的蓄積の厚さを感じた。

 石川氏のことは恥ずかしながら知らなかったが、おもしろい展覧会だった。タイトルの「14座」は、「ヒマラヤ山脈カラコルム山脈にまたがる8000m峰、14の山々を指しています」とのこと。

(出典:https://www.library.chiyoda.tokyo.jp/information/20231120-hibiyaexhibition_ascentof14/

 時間の都合上、動画をじっくり見ることはできなかったが、石川氏の撮影した数々の写真は、ヒマラヤの山々の美しさだけでなく、雄大さ、荘厳さ、畏怖を伝えてくれる。

 それだけでなく、登山を支えるベースキャンプ、ふもとの町などを写した写真からは、山と共にある生活の息吹を感じる。

 展覧会の構成で大きな特徴となるのは、写真や動画の展示だけでなく、ヒマラヤ周辺の山々や登山を題材とした書籍の紹介である。14の山それぞれに対応するテキストの抜粋と書籍の実物も並べて展示されていた。書籍は、特に1950年代後半にかけて邦訳されたものが多かったように思う。

 率直に、写真、動画だけでなく、文字で山そのものを、登山を伝えることの奥深さに感じ入った。なぜか。

 ひとつには、その訳文の正確さがあるのだと思う。訳文が山の美しさ、雄大さ、そして自然の厳しさ、怖さを臨場感を持って伝えてくれる。おそらく原著の原文からしてそうだと思うのだが、山を伝えるメディアの質も量も制約がある時代のなかで、正確さを伝える文章は自ずと(修辞的な意味で?)美しさを帯びるのだと思う。その原文を余すところなく活かすための翻訳の努力がより一層美しく、これもまた机上で行われる登山なのかもしれない。

 以下はただの妄想だが、なぜ正確さが要請されるのか。単純に、記録としての正確さが求められるからなのだろう。地形、気象、文化、登山技術、健康状態等、どれひとつとっても(完璧さは土台無理だとはいえ)正確さを損ねることは、自身や後続の登山者の生死にかかわることになるように思う。

 もちろんこのことは、登山に限ることではなく、記録とはえてしてそういうものなのかもしれない。しかし、登山に限ってみれば、もしかしたらそのような、身震いがするほどに差し迫った、ある種強迫的に精緻さを研ぎ澄ませる文体のあり方は、確かに美しいのではあるが、美しさだけでは捉えきれない、一種独特の崇高さを我々にもたらしてくれるようにも思う(ここまで書いておいて、展覧会で読んだ文章が本当のところどの程度正確さにおいて妥当性があるものなのか、実のところ判断はついていない)。

 ここで出てきた「崇高さ」について少し考えてみよう。井奥陽子『近代美学入門』の第4章は「崇高」について取り上げている。

 自然の景色はプロポーションで捉えることができず、秩序や調和も見いだされません。それが近代になると、そうした不規則や無秩序あるいは不調和が肯定的に捉えられ、ある種の美しさが見いだされるようになるのです。これは大きな転換でした。
 近代以前のヨーロッパの人々にとって、自然の無秩序さをもっともありありと感じさせるものが、雄大でときに凶暴な大自然でした。(中略)
 こうした大自然を前にすると、自然の大きさや力に恐ろしさを感じると同時に、心の高まりを覚えることがあります。(中略)

 (中略)それまでの「美」では説明できない、恐怖と混じり合った高揚感という、この矛盾するような感情を言い表すために用いられるようになったのが「崇高」の概念です。(pp.194-5)
 

 まず、自分がヒマラヤのエベレスト等の写真を見て覚えた感情は、一種の崇高さなのだと思う。それだけでなく、自分はその崇高さを活写した文章においても、崇高さを覚えたのではないか(ここで、自分は山を直接見たわけではなく、写真を通してそれを覚えていることにも注意したい)。

 元来、「崇高」は、「言葉がもつ崇高さを指していたものが、自然がもつ崇高さも(むしろこちらをおもに)指すものへと変化」(p.212)していったという事情もあるようである。

(ここで、「美」と対比されるところの「崇高」(バーク)、自然に対して挫折しつつも立ち向かう人間の理性の「崇高」(カント)、その後のピクチャレスクの展開等、細かな美学史的議論はあるが、その点は省略する。)

 思いつき程度の話でしかないが、修辞学や文体論、文芸理論的意味での「崇高さ」と、荘厳な大自然の険しさ等に感じ入る「崇高さ」を同時に味わうことのできるメディアとして、登山に関する紀行文や記録があるのではないか。そのように考えた。


参考
井奥陽子,2023,『近代美学入門』(ちくま新書

日比谷公園内の松本楼。お高いんでしょ?

噴水

日比谷公会堂。歴史を感じさせる。

夜の日比谷図書文化館

ば、映え~(?)

展覧会のちらし