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20240407「特別展 海―生命のみなもと―」(於:名古屋市科学館)――生命の歴史と生き物の尊厳

 名古屋市科学館で開催中の「特別展 海―生命のみなもと―」を見に行った。去年、国立科学博物館で開催していた展示の巡回。いくつか印象に残ったこと、考えたことのみメモに残しておく。

名古屋市科学館

マスストランディングの頭骨展示

 少しショッキングな展示の写真だけど、これはストランディング調査についてのもの。ストランディングはざっくり海の生物が海岸に座礁して死んでしまう現象のこと。集団座礁、大量座礁のことを「マスストランディング」と言う。ストランディングの結果死んでしまった個体を利用して、様々な学術調査が行われる。

 左側はシワハイルカの頭骨、右側はユメゴンドウの頭骨。全体像でなく頭骨のみの展示が、ある種の不気味さと共に集団座礁の不可解さを喚起させる。

 学術的意義云々の前に、言ってしまえば死骸がこのように展示されてしまうことに対して、少し違和感を覚えてしまった。展示と配列の無骨さが、各々の個体をマスとして、データとして扱っていることを象徴しているように思える。もう少し生に対してのリスペクトは無いものか、ナイーブとしか言いようがないかもしれないが、率直にそのように思った。

 しかし、そんなことを言い出したら展示というものが成り立たなくなるので、これはいちゃもんでしかないのだが(少なくとも、一体・全体だけならまだ印象は違ったように思う。そうするとマスさは表せないが)。

しろくまさん、かわいいね

 それじゃあ、このホッキョクグマの剥製はどうなのか。かわいいし、良いんじゃないですか。これは生に対してのリスペクトがあると思いました(本当?)

 じゃあ、二万年前の港川人頭骨はどうか?これも正直どうなのかと思うが、さすがに二万年も前なので、尊厳もへったくれも無いかもしれない。

 数十年生きてきて今更という感じはするが、死んだもの、かつて生物だったものが展示されていることに対して、怖くなってきました、今。

 この展示会そのものが、生命のはじまりを海から捉えるというコンセプトを核としており、言うなれば気の遠くなるような時間の果てに、原生生物含めて生物の生と死のサイクルと蓄積が続いていることを示している、と思う。

 我々ヒトは言ってしまえばかつて魚だったこともそうだし(「私たちをふくむ四肢動物は、デボン紀に肉鰭類の一群から進化しました。四肢動物の4本のあしは、祖先にあたる肉鰭類がもっていた肉質のひれから進化した構造です」(図録p.33))、マリンスノー(植物プランクトンの遺骸等)を食べて生きる深海生物もそう。

 展示の趣旨とはずれるが、生き物に尊厳があると人間が捉えることは、生命の圧倒的な歴史の前に意味をなさないのだろうか。どうなんでしょうか。そんなことを考えた。

 その他、海洋調査に関する最近の動向(ドローンとかアイソロギングとか、熱水からの金回収とか)についても知ることができ、これもおもしろかったな。

熱水からの金回収、現代の錬金術か?自分ひとやま当てさせてください