しばらく前にマーティン・マクドナー監督『イニシェリン島の精霊』を観た。
話の本筋とは関係しないと思うのだが、「お前はつまらない」と突きつけられた主人公パードリックに自身の姿を重ね合わせるのだとすれば、そのつまらなさを引き受け、耐えながらどう生きていくか、ということを考えてしまった。否応なしにそのことを考えざるを得ない。もはやHow云々の次元の話ではなく、つまらなくても生きていくしかないのである。
率直に言えば、コルムとの仲を元に戻そうと、陰湿なかたちで奮闘するパードリックのようになりたくないし、なってはいけない。島に来た音大生に対して、あのような身内にかかわる嘘で騙して追い出し、コルムとの仲を邪魔するようなことは……。このことが原因となって、島の鼻つまみもの同士である(と当方が勝手に見なしている)ドミニクにも見放される始末である。
思えば、コルムは音楽に、妹のシボーンはライブラリアンに、ドミニクはシボーンへの愛に……とそれぞれが一歩を踏み出そうとしていた。シボーンに言わせれば島の人びとはどのみち全員陰気で退屈な人びとなのかもしれないが、それぞれが狭い島の中であがいていた。結局はコルムは指を失い、シボーンは島の生活を捨て(司書として働く点は救いであるにしても)、ドミニクは振られた挙げ句死ぬ。パードリックとコルムの報復合戦の末に、パードリックのロバは死に、コルムの家は焼ける。
お道徳の水準で言うならば、自らの凡庸さを引き受けること、嘘を付かずに生きること、一歩踏み出した他者の邪魔をしないこと、これらの重要性が(監督の意図とは別個で)身にしみた。
残されたパードリックとコルムの関係は関係そのものがもう呪いとしか言いようがなく、延々と続く島の曇天のようなものである。